『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた』を見て

Interludio Digitale - Grundig #1

日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
NHKスペシャル|日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた


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NHKスペシャル|日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた http://www.nhk.or.jp/special/onair/110227.html


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『第1回 “外交敗戦”孤立への道』を見て 『第2回 巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム』を見て


戦争に関連しては「言論統制の被害者」という立場をとることが多い印象のマスコミ・メディア。 しかし、今回は、NHKよって過去の「日本放送協会」が戦意高揚を煽る側であったことまで言及されました。 新聞社が陸軍から「満州事変は関東軍が仕掛けたこと」という情報を得ていながら、報道しなかったという証言まで飛び出しました。しかも、記者自らから…。

番組の流れ

番組はやはり大きく2つのパートにわかれていました。 前半は「新聞」、後半は「ラジオ」です。

戦争と新聞

輪転機

世界恐慌で落ち込んだ発行部数は1931年から1941年にかけて、主要3社で見ると倍増している。 戦争の報道をすると発行部数が増えるという「経営的判断」がその背景にあった。

満州事変の報道合戦により号外が連発されている。その号外が飛ぶように売れる。 そして号外競争、新聞社は発行部数を伸ばしていった。

大正デモクラシーの時代は軍の拡大に批判的だったはずの新聞は、満州事変の立場において、政府と関東軍の対立があったときに、東京日日新聞は戦線を拡大しようとする「関東軍支持」の立場をとった。 その背景には、中村大尉事件[Wikipedia]があった。

朝日新聞は当初慎重論であったが、各地で不買運動にさらされて、軍支持へと変化した。 当時の朝日新聞主筆・緒方竹虎[Wikipedia]が陸軍の今村均と会談した直後から、朝日新聞も軍支持となった。

満州事変がはじまったころの陸軍はまだ記者の来訪を歓迎する雰囲気があった。 石橋恒喜記者(東京日日新聞)「谷萩大尉があれは『関東軍の謀略』と話してくれた」と証言する。 しかし、新聞はどこも報道しなかった。

満州国の権益が最重要だとする空気が作られた。 リットン調査団の報告書を受けて、国際連盟を脱退しないように松岡全権が奮闘していたころ、日本の新聞社は「共同宣言」をかかげ、リットン調査団の報告書に反発した。 国際連盟の脱退という目標を果たせず帰国した松岡全権は、万歳で迎えられ「みなの頭がどうかしていやしないか」。

一方、(おそらく在京各社に比べ情報量で劣るため)部数が伸びない地方新聞。 空襲への防災訓練を批判する記事を出した信濃毎日新聞は、信州在郷軍人同士会の不買運動に屈した。 だが、それに対する社内の反応は冷やかだった。

文藝春秋社主催の在京新聞6社の座談会で「自分の新聞が売れなくなるようなことは書かないほうが良いと思う」「いっそ規制してくれたほうが楽」という自己規制の発言が出る雰囲気であった。

ニューメディア・ラジオ、そして真珠湾へ

1941年時点でラジオの契約数は約700万、新聞大手合計部数にはかなわないものの、大きく件数を伸ばしていた。

1937年日中戦争開戦時の首相・近衛文麿は戦前のラジオ放送を独占していた、日本放送協会の総裁でもあった。 1937年7月11日首相官邸にメディアの代表40人を集め、「挙国一致」政府への前面強力依頼を行った。同盟通信が代表して約束をした。 また、演説をラジオで中継し、国民を熱狂へとかりたてようとした。 これはナチスの手法「ラジオは国家の意志をはこぶ」を真似たものである。 このころの日本放送協会は政府の統制下にありナチスの手法を長年にわたり研究していた。

「南京陥落セール」が行われるなど、日本は熱狂している。しかし、世界の認識とはずれていった。 ラジオは戦意高揚の手段として「前線中継」などをして、熱狂をあおるが… なぜかいつまでも中国は屈しない。煽られた国民は、中国を支援する英米を非難。 対米外交は強硬に出るべきとの世論は3分の2を占めた。

ドイツがパリを陥落させると、英米への反発から親独の空気が形成される。 日独伊三国同盟の調印した来栖三郎は新聞がこの雰囲気を作りだしたのだと批判。

熱狂は紀元2600年記念式典でピークになる。

メディアは自分達が世論を作っていって、自分達で飲みこまれてった。 まだ1941年頭の時点では、6割の人が対米開戦は避けられるという世論調査の結果だった。

対米交渉にいきづまった近衛内閣が退陣すると、東条内閣が成立する。首相官邸に届いた3000通の投書は「開戦」を東条首相に求めていた。

自分が統制しておいて作った流れに流されて、戦争に至ったのであった。

思うこと

満州事変が関東軍の謀略であるという事実を知っていながら、新聞社が報道しなかったという「記者」のサイドからの証言はおそろしいものがありました。これが記者クラブの病理ということなんでしょうか。これはいろいろと決定的な証拠となる証言テープなのではないでしょうか。 満州事変は関東軍の謀略だと知っていながら、煽っていたというんですからね。 新聞は売れてナンボということがぶっちゃけられたという点もすばらしい。

売れてナンボというのは、今でも通じますからね。

戦時中のNHKについての態度はやや中途半端な印象を受けました。 わざわざ「政府の統制下にあった日本放送協会」としていましたから。ヘッジしてあります。 とはいえ、ナチスを真似てプロパガンダ手法を研究していました…という事実を出す、近衛文麿と日本放送協会の関係を表に出した上で、ということを自らやるのはよかったとは思います。

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