テレビというメディアは、あまり討論を伝えるには向いていないと思うのだが、テレビで討論番組をやっていると、つい見てしまう。といってもまあたいていは聞き流す程度のもので、内容に入れ込めないと、つい頭が脱線を始めてしまう。そのときも、タレントだの評論家だのが教育論議をしているのを耳半分で聞いていたのだが、ふいにこれ何かに似てるな、という考えがもやもやとわいてきた。で、しばらくしてからはっと気づいた。
ダイエット情報番組だ。
テレビではよくダイエット情報番組をやっている。典型的には、「○○を食べるだけで」「1日わずか10分で」といった、簡単で楽なのにえらく効果的なダイエット法の紹介。関西テレビの「発掘!あるある大事典」での捏造事件で業界として少しは懲りたかと思ったら、どうもそうでもないようで、その後もなんだかんだと次々に新手が登場する。テレビ番組の教育論議もそれと似ているように思う、というと何やら失礼な感じもするが、実際そう思えてしまうのでいたしかたない。
なんだか「刺激的」な主張を掲げて、何やらデータらしきものを出したり、「専門家」の方々が何やら本論に関係あるのかないのかわからないコメントをしたり、タレントや評論家がわあわあと騒いだりしてるという番組の作り自体が似てるということもあるのだが、もちろんそれだけではない。「教育」というテーマ自体が、ある意味ダイエットに似てるのではないか、と思ったわけだ。
1. 複雑なメカニズム
教科書に出てくる「教育」というのは単純に定義されていて、何をどうすれば良くなるかがよくわかるようになっているが、もちろん実際にはそんなに簡単なものではない。それと同じで、ダイエットも、根本原理はどちらかといえばシンプルなのだろうが、いろいろな要素がからみあっていて、実際のメカニズムはけっこう複雑だ。行為と結果の因果関係は必ずしもはっきりせず、起きるはずの結果が起きなかったり、起きるはずのない結果が起きたりすることも珍しくない。
2. 多くの学問分野が関連
教育を扱うのは教育学、というのは当たり前といえば当たり前だが、本気で教育のことを理解しようと思ったら、それだけでは不足、と専門家も認めざるを得ないのではないか。教育経済学とか教育心理学などはそういう流れのものだし、法や制度との関係も当然重要。哲学や社会学もいわば「すぐお隣さん」だ。こういうところもダイエットと似ていて、単に栄養学とか医学とかいうだけではなく、心理学やら何やら、あちこちに隣接分野があって、全体像を理解しようとしたら、けっこう幅広い知識を必要とするのではないかと思う。
3. 結果の検証が難しい
教育の検証というのは、基本的に難しい。そもそも「教育」の成果なるものの定義が難しいからだ。もちろん教育の現場はノイズだらけで、それを、いろいろな限定条件などをつけながら、いわばだましだまし実証している。ダイエットも同様で、実験と称するものも、少なくともテレビ番組で見られる類のものは、対象となってるダイエット法以外の影響がかなり混じっているようだから、きちんとした検証にはなっていないものが少なくない。
4. 日常的に観察できる(素人が口を出せる)
これは教育に限らず、広く社会科学一般にいえることだが、理屈は難しいものの、教育というのは、たとえば超高温下での素粒子のふるまいなどとちがって、誰にでも容易に観察することができるし、実際に多くの人々が気軽に語っている。つまり、適切かどうかは別として、素人が口を出しやすい領域なのだ。ダイエットも同様で、理にかなった方法であるかどうか別として、素人でも体験談レベルならそれなりにものを言うことはできるし、実際に発言する人は、自称「専門家」も含め、大勢いる。
5. 非専門家が大きな顔をできる
仮に素人が口を出せる領域であったとしても、それが充分な説得力を持つとは限らない。仮に「街の物理学者」みたいな人が「地球は平らだ」と主張したとしても、そうした考えを持っている人がいることは否定しないが、まあほとんどの人は信じない。しかし教育やダイエットの領域では、本来なら素人扱いされる自称「専門家」の方々が、けっこう大きな顔をすることができる。理由はいろいろあろうが、有力なものとしては、上記の「検証の難しさ」に加え、「実績」がある。「○○な教育のおかげで私はこんなに立派になった」「半年間で○○キロの減量に成功した」といったもの。それほどの「実績」がある人の言うことなら正しいだろう、と思ってしまう人が少なからずいるわけだ。実際にはそれらが再現不可能な偶然の結果であったとしても。
6. 「ミクロの解」がマクロにみると解でないことがある
ものごとの分析には、おおまかにいって、大きく見る手法と細かく見る手法があるが、多くの場合、後者のほうが楽だし実際に数も多いだろう。たくさんの想定をおいて、めんどうなところをはしょって問題を単純化して、その中で分析するわけだ。したがって、その学校や家庭、地域の範囲内では適切なことが、他の学校や家庭、地域の中では他の条件との兼ね合いでうまくいかない、ということはよくある。たとえば、秋田県の学力テストの成績が全国一位だからといって、他の都道府県がその取り組みを真似しても、テストの成績が上がるとは限らない。それと同じように、ある食品に痩せる効果のある成分が含まれているとしても、それを食べれば痩せるとは限らない。つまり、「こういう法則がある」ということと「こうすれば問題が解決する」ということはしばしばちがうのだ。
7. 「シンプルな解」は存在するが実行が難しい
実際のところ、問題を解決する方法が存在しないわけではない。ただ、それはたいていの場合、実行がとても難しく、現実には不可能に近い。たとえば、怠惰な浪人生が、たった今から、遊びを封印し、これまでよりはるかに勤勉になり、寝る間も惜しんで勉強すれば、志望校に合格することができるだろう。それは、今日から固い決意をもって毎日の摂取カロリーを減らし、適度な運動や健康的な生活習慣を確立できればダイエットが成功するであろうことと同じだ。それができれば苦労はしない、という意味も含めて。どちらも難しいのは、私たちが「過剰」な負担を負うことなしに、そこそこ効果的な成果を求めていたりするからだ。
8. たいていの場合、失敗はfatalではない
教育政策もダイエット法も、対象となるもの(社会や人体)に対してそれなりに影響を与えるものではあるが、よほどのことがなければ、それが意図した結果が出なかったとしても、「致命的」な失敗につながることはあまりない。多少PISA(OECD生徒の学習到達度調査)の順位が下がろうが、体重が増えようが、日本社会が崩壊したり、死に至ったりすることはなく、「全体」としてはまあそれなりになんとかなるものだ。裏返すと、私たちは通常、これらに対して「絶対」の安全性を求めたりはしないし、「失敗」に対して概して寛容であり、かつそのことを短期間に忘れてしまう。
9. 矛盾する言説が平気で共存できる
これらが総合することにより、教育についてもダイエット法についても、矛盾する言説が平気で共存できる、という状況が生じる。もちろん、だいたいの人が反対はしないという「おおまかに合意できる考え」がないわけではないのだが、それをとりまく「バリエーション」の範囲がかなり広くて、いわば「ほとんど白」から「ほとんど黒」まで含む百家争鳴の状態になっているわけだ。したがって、教育論議でいえば、任意の政策(たとえばゆとり教育でも詰め込み教育でも)について、効果があるという議論と効果がないという議論が同時に存在するし、ダイエット論議でいえば、任意の食品について、「ダイエットに効果がある」という主張と「効果がない」という主張が混在することとなる。
10. 主張に「ウラ」があることが少なくない
ことをさらに面倒にしているのは、教育論議にせよダイエット論議にせよ、さまざまある主張のうち少なからぬものが、実際には一種のポジショントークである、あるいは少なくとも、ポジショントークっぽい色合いが見える、ということだ。つまり、裏に利害関係を背負った主張であり、そのために必ずしも素直に受け取ることができないということ。もちろんすべてがそうだといっているのではない。個々の主張には説得力の差があるようにも思われるし、かつ、「ウラ」がありそうな主張の「分布」には「偏り」が見えるような気もするのだが、このあたりは突っ込むと長くなりそうなので、ここではこの程度にとどめる。ともあれ、要するに、玉石混交ということだ。
元ネタ
H-Yamaguchi.net: 経済論議がダイエット論議と似ている10の理由 http://www.h-yamaguchi.net/2009/05/10-9970.html
経済論議がダイエット論議と似ている10の理由 | 専門家や海外ジャーナリストのブログネットワーク【MediaSabor メディアサボール 】 http://mediasabor.jp/2009/05/10_3.html
なるべく元の文を生かそうとしてみましたが、ちょっと通じないところもあるかな.. 項目レベルでは、まったく教育に当てはまる話ばかりではないかと思ってやってみたのですが。