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デジタルネイティブには程遠い1978年生まれの私の話

とりたてて世代論がすきなわけではないけど、いつ何をどうやって情報として与えられてきたかは決定的だと思う。

テクノロジーがそれにめちゃくちゃ大きい影響与えてる、無意識のレベルで価値観形成されてる、と思います。

わたしの「無意識」をもっと明示させるために書いている、に等しいです。
デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 - はみだし

私も無意識を整理したくなりました。

1978年生まれの私が物心ついたときには、1980年代でした。 テレビから流れてくるニュースの単語をなんとなく記憶できはじめたころのインパクトはなかなか離れないものです。

  • 総理大臣といえば中曽根
  • 大統領といえばレーガン
  • オリンピックと言えばサラエボとロサンゼルス

生まれて初めて自分の意志で買ったハンカチには、宇宙刑事シャイダーがプリントされていたものです。 東京ディズニーランドができたとき私は4歳でした。千葉県に住んでいた私はその年にはディズニーランドに連れていってもらっていました。

保育園に通っていた私は親の迎えを待つ間、テレビを見て待機していました。 魔法の天使クリィミーマミ、キャンディ・キャンディ、ルパン三世、ガッチャマン、タイムボカン、機動戦士ガンダムなどが再放送されていたものなので、見ていました。 終わっても迎えにきてくれないと、つらいものがありました。

プログラム

芽生え

4歳になる直前、病気をして入院しました。 そのころはなめ猫ブームだったので、なめ猫のゲーム&ウォッチというものを入院中のつれづれにと、もらったような気がします。引越したときになくしてしまいましたが。

あるとき親戚の家に遊びにいくとテレビにつながれていた機械がありました。 その機械から伸びていた「コントローラー」というものの左側には十の形をしたボタン、右側には四角いボタンがついていました。 それを使って少し年上の親戚は「ナッツ&ミルク」や「ドアドア」「ロードランナー」というラベルのついた「カセット」を差し込んで、遊んでいました。スイッチを入れたときに、たまに変な画面になることがありましたが、「カセット」のお尻に息をふきかけて、差し込み、スイッチを入れなおすと元に戻りました。 少しやらせてもらいましたが、あまり上手くできませんでした。

1985年、小学校に入るとき近所にはその機械を持っている同年輩の友達が増えてきました。右側の二つのボタンは丸く変わっていました。 その年の間にその機械を持っているともだちは一気に増えました。たいてい黄色いカセットをいっしょに買っていました。 子どもが「みんなも持っている」と言えば、たいていウソかなと疑うところですが、実際にクラスで半分くらいの家にはその機械がありました。親のほうがたくさん遊んでいる例もありました。ゲームセンターにお金を払わずにゲームができるのがうれしかったようです。

私もその年、1985年に買ってもらいました。 ロボットを使うゲームとロボットも買ったのですが、パズルの問題は非常に難しくすぐに投げ出しました。

その機械を購入すると「ファミリーベーシック」というものの広告が入っていました。 実際に持っていた友人の家にいくと「プログラム」を書けばゲームが作れると、その友人のお兄さんがいうではありませんか。 「プログラム」への憧れが芽生えました。

2進数

小学校3年生のとき「ドラゴンクエストIII」が発売されました。 発売日から遅れること1ヶ月くらいで入手したはずです。 もっとも長くやりこんだゲームのはずです。公式ガイドブックにも載っていないモンスターのデータがあまりに多いので、ルカニやボミオスや毒針を駆使して相手のHP・攻撃力・守備力・すばやさなどのデータを収集していきました。ドロップ品もたいていおさえたと思います。 「ちから」などのステータスの最高値が「255」であることに疑問を抱いたのがこのときです。 ですが学校の図書館にあった「○○のひみつ」シリーズで「2進数」の知識を手に入れ、カセットROMの説明についている「ビット」という単位と結びついたときに疑問は氷解しました。

ふと気付けば、のび太よりも、カツオよりも年上になっていました。

そして、中学校に入ったらパソコンを買ってほしいと親にねだるようになりました。もう、誕生日プレゼントも買ってくれなくていいし、サンタも来なくていいから。

パソコンをねだった理由は「プログラム」ともうひとつ「パソコン通信」でした。

パソコン通信

当時はまだ土曜日も4時間目まで授業がありました。 帰ってきて、「バラエティー生活笑百科」と連続テレビ小説を見てから習い事をしにいくのが、生活のパターンになっていたものです。

小学校5年生のときの連続テレビ小説「青春家族」で、パソコン通信というものの存在を知りました。 稲垣吾郎演じる少年が、パソコン通信で「文通」をしてその相手と会う直前までいくシーンがありました。 結局、ひよってしまい、会わずに終わったように記憶していますが…

私は強く印象づけられたのです。パソコン通信で、会ったことがない人に会うことができる!

でも、パソコンは買ってもらうことができましたが、パソコン通信は電話代がすごくかかる、という情報を親の同僚から仕入れてきたらしく、つながることはできませんでした。

中学・高校くらい

高校受験をしたくないが故に、中高一貫の学校を受験して入学しました。

妹が漫画を買ってくるので、ついでに読みました。 また学校のつながりでも、いろいろ読みました。 ことに「天使なんかじゃない」と「ぼくの地球をまもって」と「月の子」と「BANANA FISH」と「日出処の天子」と「イティハーサ」は私の人格形成に多大な影響があるのではないかと思ってます。

「三国志」は小学校入る前に見た人形劇をベースに、ナムコのゲーム、吉川英治の小説を経由して付き合いが続いていました。Da GaMaという雑誌やコミックトムの投稿コーナーなどで、こういう世界もあるのか…と見ていたものです。

また、ある日、テレビ東京で放送されていたアニメは、私に大きなインパクトを与えました。 目付きの悪いオーベルシュタインという人が、強面のいかにも武闘派な雰囲気の人達を圧して指示を出していました。首都を制圧しにいくらしいです。 このオーベルシュタインという人が主役なのではないかと思って、タイトルを調べ、原作を買ったところ、主役でもなんでもないことに驚きました。 今となっては、私が購入した段階で原作が完結していたことを感謝するばかりです。

買ったパソコンですが、そもそものプログラムしたい目的もしっかりはたしておりました。 FM音源ついていたPC9801DXという機種を買っていたので、BASICで打ち込んで音楽を作って遊んでいました。 ベーマガの写経から、はじまってちょっとしたゲームをつくったりもするようになりました。

パソコンを持っている友人はそれなりにみつけることができましたので、MS-DOSの*.batでゲームブックのようなものを作って遊んだり、他の人が作った何回かキーを操作するとエロ絵が出てくるトラップなどにちょっとあせったりするものの仕組みを調べて反撃するなどしました。 Macユーザーと友人とデータを交換しようとしたときの苦労は、かなりのものでした。 Macでフロッピーに保存したデータをMS-DOSで見ることができない? エンディアン、文字コード、改行コード、フロッピーの2mode/3modeなどの知識を獲得しました。

光栄の歴史三部作、イースなどのfalcomのもの、TAKERUで購入したゲームをやっている時間が長かったように思います。 世界史の知識や日本史の知識はゲームを経由して手に入れたものが多いと言えるでしょう。 また、菅野よう子、CASIOPEAはゲーム音楽を通じて出会いました。

親が勤めていた会社でもフロアに数台のパソコンが置かれるようになったせいで、書類を清書したい親が私にこづかいを払って打ち込ませていました。家族の誰よりもキーボードの入力がはやかったためです。

携帯電話やPHSを持っている人は同級生にほとんどおらず、ポケベルでした。カタカナ表示はできました。 公衆電話が10円で使える間にたくさんの文字をベル打ちで入力できるかが競われていたように思います。

大学

1998年、一年の寄り道の末、大学に入学することができました。 今まで千葉県からあまり外に出なかった私でしたが、遠出をするようになりPHSを買いました。DDIポケットでした。 その後、つきあっている彼女と同じ通信会社のほうが通信費が安くすみそうということで、DoCoMoの携帯電話に買い替えました。

一人暮らしはとてもさみしかったので、すぐにパソコンを「インターネット」につなぎました。 このころのWindowsのパソコンを買うとたいていモデムがついてくるので、電話につないで、プロバイダに入ってというステップを踏んでいました。最初は従量制のプロバイダを使っていたものですが、じきに固定料金となり、テレホーダイにも加入しました。 テレホタイムに確実に接続するため10円の損を覚悟して、22:57に接続を開始したりしていたものです。

雑談系のメーリングリストに入ったり、自分でもメーリングリストをたちあげたりしていました。 ライブ会場やオフ会で、掲示板やメーリングリスト交流した人と会って楽しむことができました。

プログラムを書いていた経験は、我が身を助けてくれました。 中学校に入ったときも、頭いい人というのはこんなにたくさんいるのか…とうちのめされましたが、大学に入ったときの精神的ダメージはそれ以上でした。同級生がいるわけでもなく、この大学でどのように振る舞っていいのかという情報は私にはありませんでした。同級生がたくさんいる学校の出身者が群れをなしているのを見て、そうとうに萎えたものです。 授業にはついていくのに精一杯でした。

しかし、なぜか情報処理が文系・理系共通で必須でしたので、文系でBASICのプログラムができる私はちょっと頼りにされました。Pascalというプログラミング言語は初めて見ましたが、やっていることはなんとなくわかりましたので、まわりの人の質問にこたえながら、課題をこなしていました。初めて余裕を持ってこなせた授業でした。 「あ、オレここにいてもいいのかな…?」と思えた瞬間です。 この経験がなかったら、私はここで潰れていたと思います。

高校時代、C言語の存在を知りながらコンパイラが高くて手出しできませんでしたが、LinuxというOSを使えば、C言語のコンパイラが無料でついてくると知り、Windowsが入っていたマシンに入れました。Slackwareというディストリビューションでした。その後、RedHat、Debian、Vine、Kondaraなどを入れては遊んでいました。 C言語でのプログラムや、Apache+PHP+Postgresな環境で自宅CD・書籍管理システムを構築して悦にいっておりました。

時間を費していたのはニュースグループ(ほぼROM)、メーリングリスト、2ちゃんねるなどの匿名掲示板。 テレビはあまり見なくなりました。 HTMLを自分で手打して「ホームページ」を作っていたのもこのころです。 段々更新もしなくなりましたが。

就職

就職活動中にいろいろな会社を見てまわりましたが、プログラムを書いたことがある経験が多少なりとも生きる職業がいいだろうということで、最終的に「システムエンジニア」にしぼって活動し、無事内定をもらうことができました。 情報源として2ちゃんねるをはじめとした匿名掲示板を見ていました。 最後は自分の目で見て、納得してから選択したつもりです。 実際、会社の中の人になってみると、どれが中からの書き込みであるか、なんとなくわかるものですね。

就職してから、思ったとおりシステムが動かないという問題を解決する局面がなんどもありましたが、かつて自分がはまったエンディアンや文字コードが原因だったり、自宅で余ったPCをルータとして使うことでいつの間にか知っていたルーティングプロトコルの知識が活きたり、UnixのシェルとWindowsのバッチの両方できることが重宝されたりなどした新人〜3年目くらいを過しておりました。 「あ、オレここにいてもいいのかな…?」と思えた瞬間です。つぶれずにすみました。

学校の授業で学んだことより遊びで手に入れた知識のほうが役に立っているというのはおもしろいものです。 「なにが役に立つのかわからないものですね」という信念じみたものは、ここで確立されたように思います。

ブログ・SNSなど

2005年くらいまでの間は、ネット上では匿名コミュニケーションどっぷりでした。 仕事を通じての人の出会いで十分刺激的だったりしたのも原因かもしれません。 mixiは会社の同僚の招待ではじめました。当時はまだ招待制だったんですね。

mixiの存在を知ったのは、2006年。 このブログをはじめたのが、2007年。 ニコニコ動画にユーザ登録したのが2007年。 Twitterをはじめたのが2009年。 Facebookも2009年。

ですが私のパソコン通信へのあこがれを満たせる感じを得るができたのは、今のところTwitterでした。見知らぬ人と出会える、とすりこまれたのが原因でしょう。オフ会なんてひさしぶりでした。


プログラムの話とインターネット経由でのコミュニケーションの話、コンテンツの話ががごっちゃになって話の筋はわかりづらいものがありますが、デジタル/ネット/コンテンツを切り口にしたときに自分の経験を解釈するとこんな感じなのかなと思います。 自分のなかでも渾然一体なので、いまひとつ整理できていませんね。

同世代で共通のバックボーン…というのも気になりますけど、世代とか性別とかそういった属性はどうでもよくて、それぞれの人がどのようなバックボーンを持って、今ここにあるのか、とても気になります。